石原岳堡塁、干尽倉庫群に行ってきました。

申請したパスポートを受け取りに920さんと市役所に赴きました。

市役所の食堂でカツ丼を食べました。こういう時にしかなかなか来ないです。

針尾送信所

その後、針尾島に渡り針尾送信所の無線塔(日本遺産)の遠景を撮影。

大正時代より建つ自立式電波塔としては高さ・古さともに日本一でらしいです。視線の隅にぱっと三本塔が見えたら、いつもちょっと奇妙な感じになります。とても幾何学的でシンプルで美しく巨大な塔なだけに、異様な感じがスゴい。
今日は全天曇り空だったので残念でした。

周りには畑、林、ちらほらと民家がある程度なのでスケール感を失いがちになります。ラーメンズの塔マニアのネタにも登場していたように、塔や巨大建造物、旧日本軍の史跡が好きな方にオススメです。

僕のカメラ一式が8セットくらい買えそうな920さんのカメラ。カッコいいなぁ…!

石原岳堡塁

その後、針尾島から西海市まで渡り、旧日本陸軍の石原岳堡塁まで行きました。行くのはちょうど2年ぶりのようです。

前回と同じ案内板。

前回と同じ構図。変わっていないように見えますが、画面右隅にある遊歩道用木製欄干の一部が朽ち始めていました。

欄干の支柱はいくつか朽ち落ち、「あぶないから注意」的な張り紙も。

外堀にあるトーチカに続くトンネル。

今回は中に入らず、入り口から覗いただけでした。

明治時代に建てられた堡塁はとても頑丈なようです。対岸の佐世保市にある堡塁に比べたら、とても大切に管理されているんだなぁと感じます。

したたる水がひんやりと静まりかえった堡塁に音を響かせていました。

先ほどのトンネルのつながる外堀のトーチカを外から撮影。1897年に作られてずっと山の中にあったとは思えない綺麗さ。外堀の遊歩道の落葉の状態からみても、小まめに清掃や剪定をしているんだなあと感じました。

こういう苔が生えた倒木は、観覧する人が歩く必要がない隅っこに置いてありました。

干尽倉庫群

日没後、佐世保市内に戻り干尽町にあるレンガ倉庫群に行きました。

旧第五水雷庫の全景。着いたころには結構暗かったので、ISOを上げつつシャッタースピードを調整…ただ、手持ちだったのでブレたりフォーカスが甘かったりしてます。うーん。

鎮守府関連史跡が日本遺産に認定されてから、案内板が設置されたそうです。

現在も民間企業が飼料倉庫として利用しています。

八幡製鉄所で出た鉄屑を混ぜたレンガで建てられているそうで、とても堅いようです。

その後

海上自衛隊佐世保地方総監部の前を通り…(ネオンが光ってるの知らなかった!)

920さん宅でカレーをご馳走になり、モノポリーで遊びました。

ものぽりー

とても面白かったです。

泉福寺洞窟遺跡に行ってきました。

寒いのと正月の用事があることから遠出はせず、近所にある泉福寺洞窟に行ってきました。ここで出土した豆粒文土器は1万2000〜3000年くらい前の土器らしく、そんな昔から人がここで料理をしていたとは感慨深いですよね。(アクエリオン状態)

行くのは子供の頃以来だったのでGoogle Mapで調べたところ、よく通っている道から入れるようでした。

入り口付近。民家が立ち並ぶ車道から歩道になっています。ここから徒歩。1月というのに、やたらユスリカの大群が多かったです。

廃墟っぽいアパートの横を歩いていくと小さな広場に出ます。ベンチがありました。

泉福寺洞窟の案内板がありました。汚れていますが平成26年3月に建てられたもののようです。3年ちょっと前なので比較的新しそう。

案内板の奥を進むと、30メートルほど遊歩道が続きますが…

途中で舗装道が途切れています。ここから獣道です。

分かりづらいですが人が通った跡があります。足場はあまりよくないので注意した方が良さそう。雨の日は靴が泥だらけになると思います。僕はこういう道好きだけど!

奥の斜面に洞窟が見えています。

奥の斜面に向かう途中にも小さな洞窟があります。

周辺は住宅街に囲まれているのに、ここだけ深い森の中のような空気でした。

奥の斜面にある洞窟部分。観光客は僕一人だけでした。

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RICOH THETA Sによる全天球写真。ドラッグorスワイプで見る方向を変えることができます。

波による侵食で出来たんでしょうか。不思議な形をしています。この穴はしゃがめば入っていける大きさでした。あまり奥行はないものの、大人なら3人くらい横になれそう。

この穴は、ちょうど人が立って入ることができるサイズでした。広さは四畳半くらいかな〜。入り口よりも奥がちょっとだけ広くて、本当に部屋のようになっています。

先ほどの案内板によると、ここから25000年前の旧石器時代から縄文、弥生、平安と4つの時代に人が住んでいた痕跡が見つかったそうですね。かなり面白い地形だし、民家も昔からありそうな地域なのに祀られることもなく、1969年まで発見されなかったのは驚きです。この洞窟の入り口から数十メートルほどのところにまで民家があります。

国土地理院の地図検索サービスで発見の2年前、1967年に撮影した航空写真があったので比較してみました。迫ってるなぁ!

さらに20年前の1947年撮影の写真。遡れるもので最古の写真です。白丸のところが洞窟ですが…んー。やっぱり見つからなかったのかな。よく分かりません。

まわりにある苔生す岩も綺麗でした。誰もいない静かなところって大好きです。

大瀬戸と崎戸に行ってきました。

カブの慣らし運転も兼ねて、西海市の大瀬戸と崎戸に行ってきました。

ボアアップしたシリンダーとピストンが馴染んできたのか、エンジン再始動時にキックで全然かからないということがほとんどなくなってきました。キック回数はほとんど1回。多くて2回目でかかるようになりました。嬉しい。

一日に100km以上走るのは今年最後になりそうなので、平戸の南端、生月島、西彼杵半島を一周するように長崎市内観光…と考えましたが、今は歳末の事故が多い季節。西彼杵半島の北部をちょっとかじるコースにしてみました。

大瀬戸

佐世保の中心から70分で到着しました。大島は仕事でたまに行くものの大瀬戸は来た記憶がありません。70分と言えば、佐世保から北に進むと伊万里を過ぎたところかな。

漁港がメインの町のようです。

写真を撮りませんでしたが、ここから近くの松島や、炭鉱で有名な池島行きのフェリーに乗ることができるようです。 地元の定食屋さんのようなところは3件ほどありました。ただ、どこも営業しているかどうか分からなかったので道路沿いのセブンイレブンで昼食。室内で食べられる席がありました。コンビニは便利なんだけど、どうせなら地元のお店に入ればよかったとちょっと後悔。

崎戸

昼食をとったあと、大島大橋を渡って寺島→大島→蛎浦島→崎戸島まで橋づたいに行きました。

崎戸島にあるホテルの駐車場から望む。御床島というらしく、崎戸島とは磯でつながってるらしいです。

良いロケーションのホテルなのに営業していないようです。この張り紙があるということは、債権者が詰めかけてるのかな。

ホテルの建物の奥に北緯33度線展望台があったので行ってきました。

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寒いせいか全然人がいない…。でも、見晴しはとても良いです。

御床島の外洋側に灯台があるな〜。御床島灯台らしいです。

足元には釣り船が。

展望台は結構高い場所にあります。

たしかに危険。

北緯33度線の方向にフォトフレームのようなものがありました。

左は小立島。右は江島。江島は本土と五島列島の中間に浮かぶ有人島で、クラウドファウンディングで今年オープンした民宿「江島さとや」があると知り、行ってみたいな〜と思っています。

展望台の脇にはとてもレトロな建物が建っています。

なるほど。佐世保周辺は、島・岬・頂上には必ずと言っても良いほど旧日本軍の史跡がありますねー。音といえば高島の番岳にも対空集音設備がありました。音波を使って敵機を見つけるやつ。

川棚にある魚雷試験場跡地の建物に雰囲気がよく似ている気がします。

中は空です。入ることはできません。

展望台のすぐ隣にあるので、展望台から2階の様子も見ることができます。

やはり空です。こう目立つ場所にある史跡はスプレー落書きもあったりするものですが、周りには高いフェンスもあり、綺麗に管理されているようです。

西海橋

本土に戻り、針尾島経由で帰ります。西海橋で少し休憩をしました。

ここに来るたび鯛焼を食べてる気がする!

西海橋のゆるキャラ「うずまくぞーくん」を見ながら鯛焼をムシャムシャ。頭の3本は針尾送信所の無線塔、ほっぺは西海橋の渦潮、体は西海みかんかなぁ。西海橋のキャラなのに、西海橋の要素が未だに見つけられません(笑)

今回のルートで、佐世保の中心から70分で池島行きのフェリーに乗れるということは分かったので、いつか行ってみたいと思いました。

大野台遺跡に行ってきました。

寿福寺の逆さ紅葉を見た後、まだお昼過ぎだったのでどこか行ってみようかな〜とギアで佐世保方面に向かって走っていると、「大野台遺跡」という看板を目にしました。行ってみます!

大野池と呼ばれるため池の隣にある林が大野台遺跡です。ぱっと見ただの林だし、初めて行ったということもあり、通りすぎてしまいました。鹿町小学校付近から立て看板「↑大野台遺跡」はあったものの、肝心な目的地を見落して通りすぎるとは…。

ナビを頼って2度目に辿りついたら、道路に面したところにちゃんと立て看板がありました。最初は大野池に目が行って見えてませんでした。ぐふふ。

ちなみに周囲百メートル、民家や小学校、畑などはあるものの、ほとんど人がいませんでした。もちろん遺跡の中も。

なるほど、縄文から弥生にかけてのお墓かあ。見取図を見ると結構多くのお墓があるようですね。

林の中に足を踏み入れると、ちらほらと苔が生えた石がありました。これが石棺の跡らしいです。 あまり詳しくないので、遺跡と言われなければ良く分かりません><

あ、こっちの小さな石は人為的に長方形に並べられられているのが分かりますね!

こういう四角く並べられた石がいくつも足元にありました。人がそのまま入るのには小さすぎるので、火葬して埋葬していたんでしょうか。

2300年前からこの場所にあるっていうのを考えると、色々なことを考えます。縄文時代や弥生時代にも、今とあまり変わらない人たちが住んでいて、営みがあって、大切な人が亡くなって、悲しんで、お墓を作って…。 その時に持ち寄った石をこういう形で組んでいった人たちは、2300年経った今もその「形」が朽ちることなく姿を留め続けているとは想像もしなかっただろうなぁ…。

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遺跡内で撮影した RICOH THETA S の全天球写真です。マウスのドラッグや指のスワイプで回して見ることができます。

遺跡の隣に接する大野池。こちらは堤防のようなものがあったので農業用の人口ため池かな。

練習帆船『日本丸』を見てきました。

練習帆船の日本丸11年ぶりに佐世保に寄港したらしいので、30分ほど時間を作って出かけてみました。

ライトアップしていてとても綺麗でした。

「カブで来た」

あんまり時間が取れなくて、ちょっと覗きに行く程度のつもりだったのですが、予想以上に綺麗でした。

船尾はとても優美。

船員らしき人たちが出入りしていました。この自転車は船に積んでる船員さんのものかな。

ブリッジ付近。

しっかりと接岸されており、かなり近くで見ることができました。

55mmの単焦点1つしか持っていっていなかったので全体を撮るのがキツい。

翌日、職場の先輩とさせぼ五番街にお昼を食べにいくとこちらからも停泊している姿が見えました。

昼休み中だったため近づくことはできなかったものの、明るい時も素敵ですね!

鎮守府歴史探訪〜旧佐世保市歌について〜

佐世保市では、数年前から正午を知らせるサイレンに佐世保市歌のメロディが使われています。 人によっては学校で歌った経験があるということですが、自分が通っていた学校では習いませんでした。 (私が小学生だったころ、市内の小学校に配布されていた冊子「わたしたちの佐世保市」にも掲載されていたような気がしますが)

現在の佐世保市歌

平和的で希望に満ち溢れたメロディと歌詞でとても素敵な市歌ですが、昭和27年に制定されたようで、それ以前は市歌がなかったのか気になったので調べてみました。

旧佐世保市歌

今回調べてみるまで自分も知らなかったのですが、昭和9年頃に制定された「旧佐世保市歌」が存在していたようです。 作詞は多くの校歌や市歌を手掛けた日本文学者の八波則吉氏、作曲は明治大正期に活躍した作曲家の島崎赤太郎氏らしいです。

私が調べた範囲では、それ以上の情報を得ることができなかったため、佐世保市役所に問い合わせてみました。すると、企画部政策経営課の方に快く対応していただき、「市役所ではメロディや楽譜は残っていないが、歌詞は確認できました」と歌詞を送っていただけました。

旧佐世保市歌の歌詞は次のとおり1です。

一、烏帽子岳は高く聳えて
  九十九島の眺尽きせず
  海幸山幸心のままに
   我が市佐世保は天與の港

二、威風堂々舳艫銜みて
  海を圧する艨艟これぞ
  皇國の鎭我等の誇り
   軍港佐世保の輝く誉

三、市民挙りて鎭守と仰ぐ
  八幡宮の御稜威畏み
  一意愛市の思念に燃ゆる
 若き佐世保に栄光あれや

現行の市歌で歌われている「烏帽子岳」や「九十九島」といった佐世保を代表する名所が歌われていてとても親近感がありますね! 市政50周年の折に現在の市歌に変更されたようですが、終戦を迎え歌詞が歌いづらくなった背景もあるのかもしれません。

メロディや楽譜を引き続き探していこうと思います。(時間を探して市立図書館の郷土資料室に行ってみようかな) もし、情報をお持ちの方はコメントをいただけると幸いです。


  1. 作詞の八波則吉氏は昭和28年に亡くなっており著作権的にも問題がないはずですので、全文掲載いたしました。 

鎮守府史跡探訪〜昭和21年の佐世保空撮カラー映像〜

昭和21年に米軍によって撮影された佐世保の空撮カラー映像が Youtube に投稿されているのを見つけました。貴重なフィルムを投稿していただいて興奮しています。というのも、佐世保は戦前に鎮守府が置かれていたためか、全国でも有数の人口を誇る大都市だった1にも関わらず、当時の空撮写真や海岸線、鎮守府付近の詳細図があまり残されていません。国土地理院で閲覧できる空撮写真も戦後に米軍が撮影したものばかりです。

映像には、大牟田、佐世保、大村上空が映されていました。映像そのものは Youtube のものを見ていただくとして、佐世保上空について現在の地図と比較しながら見ていきたいと思います。

させぼ五番街 付近

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佐世保空襲の影響で空き地が目立つ港湾部です。

現在のさせぼ五番街がある場所は埋め立てされた場所です。カラオケのシダックスがある筋を五番街方面に行き、高速道路をくぐる交差点のすぐ向こう側が海でした。

画面上部、現在は松浦鉄道と高速道路がYの字になっているのが見えますが、撮影当時は画面左に向かっているものは高速道路ではなく、どちらも鉄道でした。高速道路になるこの鉄道は佐世保鎮守府、佐世保海軍工廠内にも伸びており、米軍が占領してからは「ジョスコー線」と呼ばれる線路でした。

現在も平瀬橋の脇にレールの一部を見ることができます。

島瀬町 付近

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画面右上から左に流れるのは名切川です。画面左の名切川沿いにある建物は佐世保玉屋。画面下には、旧国鉄佐世保線(現松浦鉄道)の鉄橋が焼け残っています。

今では想像することもできませんが、空き地になっている場所は空襲前まで木造の平屋が所狭しと並んでいました。こちらで佐世保玉屋周辺の焼ける前の写真を見ることができます。

画面右手の寺院は、現在の東本願寺佐世保別院のようです。

平瀬町 付近

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佐世保鎮守府を上空からカラーで映した貴重な映像です。昭和20年11月に陸海軍は解体され復員省に移行しているので、厳密に言うと鎮守府では既にないのですが、ほぼそのままの姿を見ることができます。

鎮守府内への引き込み線路の奥に見えるグラウンドは、現在、ミニッツパークの野球場・サッカーコートになっています。当時からグラウンドだったんですね。

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先ほどの写真の奥。鎮守府の建物がたくさん見えています。現在は自衛隊病院や音楽隊が置かれているエリアです。画面右上には当時から「海軍橋」の愛称で知られている佐世保橋が見えます。

元町 付近

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佐世保川にかかる海軍橋にさらに近づいたところです。凱旋記念館(佐世保市民ホール)や現在は海上自衛隊佐世保資料館になっている佐世保水交社も見えます。佐世保で一番古い町並みだった元町も壊滅的に焼失していますね…。教法寺の庭がかすかに見てとれます。

佐世保重工業(SSK)ドック 付近

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現在、SSKバイパスが走っている付近です。画面右中央に戦艦武蔵の艤装工事を行なった佐世保海軍工廠の第七船渠(現SSK第4ドック)がしっかり見てとれます。

SSKには仕事でもたまにお邪魔しますが、戦前から稼働中のクレーンや建物が現役で使用されていることも多いです。

佐世保市役所 付近

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この周辺も佐世保川を中心にして見事に焼けています。焼け野原の中、中央右に見える建物は佐世保警察署です。その上流にあるさらに大きな建物は佐世保市役所・公会堂です。

また、画面右上の山の上に見える黒っぽいL字型をした建物は成徳女子高等学校(現佐世保北高)です。

蛇島岸壁

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佐世保海軍工廠の蛇島(じゃじま)岸壁です。現在はSSKの岸壁です。

立神岸壁

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立神(たてがみ)岸壁です。現在は米軍と海上自衛隊が使用しています。

平瀬橋 付近

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中央に流れる佐世保川の手前が佐世保鎮守府、奥が一般市民が暮らすエリアに分かれていました。 平瀬橋も見えます。

佐世保郵便局(本局) 付近

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ここも綺麗に焼けています。現在の国道の場所は空襲前までは細い道だったようで、焼けたのを期に広い道を通して区画整備されたようです。体育文化館(コミュニティーセンター)がある場所は、陸軍佐世保要塞司令部跡ですが、なんだかよく分かりません。

日宇川河口 付近

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現在、佐世保高専の奥の工場がある付近です。ここには第21海軍航空廠の日宇工場があったため、撮影されたと思われます。

佐世保高専 付近

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道の形が比較的そのままになっています。画面を横断するのは現在は西九州自動車道佐世保道路。

その他

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航空母艦や二等駆逐艦のような艦艇がたくさん映っていました。

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↑の写真は、米軍が佐世保空襲後の昭和20年7月2日に撮影した針尾島のエビス湾の空撮写真です2。位置関係から考えると、「KASAGI」は航空母艦「笠置」。「HAYATAKA」と書かれているのは、祖父が乗っていた航空母艦「隼鷹(じゅんよう)」のことだと思われます。隼鷹は日本人でもなかなか音読みはできない艦名ですので読み間違えてたようです。 まさか、隼鷹のカラー映像が残っていたとは…!

隼鷹に関する記事は下記が詳しいです。

参考までに、下記は米軍が昭和21年に作成した戦災地図です。

大きな解像度のものはこちら


  1. 昭和15年時点で佐世保市の人口は全国16位。15位の札幌市と1000人ほどしか違わず、当時は横須賀市や尼崎市よりも人口が多かった。 

  2. Sasebo History – Assorted Data on a Historical City in Southern Japan 

鎮守府史跡探訪~佐世保東山海軍墓地〜

崎辺地区の見学に行った帰り、近くにある佐世保東山海軍墓地に参拝することにしました。両親から聞いた話によると、旧海軍の大尉だった祖父も生前はよく参拝に来ていたとのことです。

大宮町の通りから少し登った小高い丘の上にあり、福石小学校の南側に位置しています。狭く曲りくねった車道が続いているため、佐世保市民でもこの周辺に用事がない限りあまり通りません。

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入口の石碑です。祝日ともあって、私たちの他にも数組の参拝客がいました。

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墓地の案内板。陸軍や外国人も等しく祀られています。

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駐車場から入った参道の様子です。他のブログ記事では慰霊碑ばかりが紹介されていますが、あくまでも墓地ですのでこのような風景です。

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参道の脇には砲弾の形をしたモニュメントも。

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第二十七駆逐隊慰霊碑(時雨、白露、夕暮、有明)。400柱以上が祀られています。

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航空母艦「瑞鳳」戦役者慰霊碑。216柱が祀られています。

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軍艦「妙高」戦役者慰霊碑。90柱以上が祀られています。

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軍艦「那智」戦役者慰霊碑。約1000柱が祀られています。

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軍艦「足柄」戦役者鎮魂之碑。300柱以上が祀られています。

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軍艦「矢矧」戦役者慰霊碑。486柱が祀られています。

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軍艦「羽黒」戦役者慰霊碑。800柱以上が祀られています。

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軍艦「金剛」戦役者慰霊碑。1250柱が祀られています。

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航空母艦「加賀」戦役者慰霊碑。800柱以上が祀られています。

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航空母艦「飛龍」戦役没者慰霊碑。800柱以上が祀られています。

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佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑。伊号・呂号潜水艦合わせて2591柱が祀られています。

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広場にある東郷平八郎元帥の像。広場では近所に住んでいると思われる子供たちがサッカーをしていました。

オンラインゲームの影響で艦艇ばかり注目され「聖地」として崇められることが増えてきているようですが、自分たちのために戦って散った方々の墓地であり、慰霊のための施設であることを忘れてはいけないと感じました。

鎮守府史跡探訪~旧佐世保飛行場・崎辺地区~

佐世保市民にもあまり知られていないことですが、佐世保湾に面する崎辺半島には飛行場がありました。現在は海上自衛隊佐世保教育隊、米軍用地があります。

場所は知っていたものの、佐世保に住んでいてもまず用事がない限り行かないところですので、行ってみました。

佐世保海軍航空隊の Wikipedia ページによると、

横空の成長を期に、航空隊の増設を図った海軍は、各軍港へ哨戒航空隊を設置することとした。その第一弾として、佐世保軍港に面した長崎県東彼杵郡日宇村の半島先端の浅瀬を埋立て、飛行場を設置した。この埋立地に佐世保海軍航空隊を開いたのが大正9年12月1日である。内海部にある呉鎮守府への航空隊設置は遅れ、大正14年に佐空の分遣隊を置いた。佐世保飛行場は滑走路が短く、陸上機の常駐には不都合が多かったため、陸上機はもっぱら大村海軍航空隊が常駐する大村飛行場を活用した。そのため、佐世保鎮守府には加賀・飛龍・瑞鳳・大鷹・雲龍・葛城と6隻の航空母艦が配備されたが、艦載機は佐空ではなく大村空や宇佐海軍航空隊で訓練・補給・休息を実施していた。

とのことです。

例のごとく、佐世保地方隊のページにも詳しく説明が掲載されています。

佐世保地方隊【西海の護り】:佐世保史料館(セイルタワー)【佐世保海軍航空隊~(佐世保教育隊、佐世保警備隊、佐世保弾薬整備補給所、佐世保衛生隊第2衛生科)】

さて、下の Google ストリートビューの撮影車が入っていって撮影しているとおり、一般車両でもある程度のところまでは許可を取らなくても入っていけますが、普通の用事では一般人が行くところではないので、周辺に迷惑をかけないよう行動したいところです。

現在は海上自衛隊、米海軍、佐世保重工業(SSK)用地で区切られていますが、SSK用地は日本版「海兵隊」とも言われている島嶼上陸作戦の精鋭部隊「水陸機動団」の用地になる模様です。

SSK:「水陸機動団」拠点に 保有する崎辺地区西側、防衛省と売買契約 /長崎 – 毎日新聞

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佐世保教育隊の入口に続く道。たまたま、半島の先から来た「U.S. NAVY FIRE RESCURE」と書かれた米海軍の消防車が入っていきました。

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一般道のすぐ近くに停泊していた多用途支援艦「あまくさ」。熊本地震の被災地にいったようで「災害支援」の横断幕が掲げられていました。

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一般道の行き止まりの場所。Google ストリートビューでも見えているとおり特に何もありません。佐世保港に停泊している補給艦「おうみ」が見えました。

この後、佐世保東山海軍墓地に行きました。