今月いよいよ30歳になることもあり、身の周りを綺麗にしておこうと、年が明けてから週末はもっぱら家の掃除をしています。引っ越してからずっと開けていなかった段ボールを開いてみると懐しいものがたくさん出てきました。 (断捨離的側面から考えると、そういう段ボールは開封せずにそのまま捨てた方がいいのかもしれませんが…)
特に中学から高校にかけて、自分のパソコンのバックアップやデータ移動のために焼いた CD-R やフロッピーディスクには、その当時やっていたこと・興味を持っていたことがたくさん詰まっています。
その中に、ちょうど1年前の今日他界した祖父の写真データが3枚だけありました。 大正9年生まれの祖父は、特攻で有名な鹿児島県の知覧飛行場の目と鼻の先にある川辺中学校を卒業後、江田島の海軍兵学校に第70期生として入学しました。
写真は岩国海軍航空隊で航空術教練中の祖父(主翼上中央)です。江田島からだと岩国よりも呉海軍航空隊の方が近いですが、予科練生やその他実習生の教練はもっぱら岩国の方だったようです。飛行機はあんまり詳しくないのですが、写っている機体はどうも九九式艦上爆撃機のようです。生前の祖父から聞いた話では「赤トンボ(九三式中間練習機)に乗って飛んだ」という話ですので、写真撮影用に主力の艦爆と一緒に撮影したのかもしれません。
次の写真は、航空母艦「隼鷹」の第一士官次室記念撮影です。前列左から5番目が祖父で、部下の皆さんと昭和20年の正月に撮ったようです。隼鷹の飛行甲板上で撮影したと思われる写真です。祖父は海軍兵学校卒業後、潜水母艦「長鯨」で洋上任務についた後、「隼鷹」の後部機銃座の指揮(ケップガン)をやっていました。
昭和19年の暮れ、戦艦「武蔵」の生存者200名を乗せた隼鷹は、戦艦「榛名」、駆逐艦「槇」とともに台湾から日本へ帰投する途中、12月9日の夜に米潜水艦の攻撃を受けて船体と機関部を損傷しています。祖父から「浸水によるすさまじい傾斜だったが、なんとか佐世保まで持ち堪えた」と聞いています。時系列に関しては、Wikipedia に詳しい記事が載っています。
なお、後列左から2番目に上を見上げている人がいますが、祖父曰く「正月で酒を飲んだ後の撮影だったから、酔っぱらってふざけているんだろう」とのことでした。
最後の写真は、駆逐艦「楠」の准士官以上記念撮影です。これは終戦直後の昭和20年〜21年ごろ撮られた写真で、祖父は前列左から2番目です。復員輸送に従事していた際に「楠」の副長をしていました。その向かって右隣が艦長、さらにその右の顎髭を蓄えた方は軍医だと聞いています。なお、最終的な階級は大尉だったようです。
dyamaさん、はじめまして。
私のブログを見ていただきありがとうございます。
これからもよろしくお願いいたします。
この隼鷹の写真は、艦橋にある階段部の判る良い写真ですね。
早速保存させていただきました。
老猿さん
コメントありがとうございます。
老猿さんのブログは他に類を見ないほど詳細な考察をされていて、楽しく読ませていただいてます。
さて、隼鷹の写真は自分が高校生の頃(10年ちょっと前)に祖父から借りてスキャンしたものですが、去年遺品整理をした際には見つかりませんでした。低解像度のものしかないのは残念ですが、老猿さんのような方の視点で価値を見出していただいて嬉しいです。
これからもよろしくお願いします。
[…] ↑の写真は、米軍が佐世保空襲後の昭和20年7月2日に撮影した針尾島のエビス湾の空撮写真です。位置関係から考えると、「KASAGI」は航空母艦「笠置」。「HAYATAKA」と書かれているのは、祖父が乗っていた航空母艦「隼鷹(じゅんよう)」のことだと思われます。隼鷹は日本人でもなかなか音読みはできない艦名ですので読み間違えてたようです。 まさか、隼鷹のカラー映像が残っていたとは…! […]
dyamaさん はじめまして^^
小生の父は、呉海軍工廠の造機部と部署に所属した技術士官のグループです。平成24年(2012年)から父の呉海軍工廠の足跡を調査して、一冊の本に纏めております。題名は、「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 呉の奇蹟 第4版」と云います。自費出版・非売品ですが、カラー版200ページの読みやすい本です。全国の140か所の図書館に登録しておりますが、佐世保市図書館の郷土資料室に登録されておりますので、是非一度お読み下さい。
隼鷹は、終戦時は呉港内にいたと思いましたが・・・
フランツさん
コメントありがとうございます。ご本の紹介、ありがとうございました。題名で検索して、次のページを見つけました。
https://blog.goo.ne.jp/4tnhtknorms/e/7a84059c47107299864eb14d10c5f42a
詳しく調べられているようで、とても魅力的です。佐世保の郷土資料室にもあるとのことで、ぜひ読ませていただきたいと思います。
さて、隼鷹の終戦時の位置に関してですが、祖父の話、各種本やインターネット上で公開されている写真からも、佐世保市針尾島のえびす湾に係留されたまま終戦を迎えていると考えていました。
昭和20年7月2日、佐世保上空にて米軍が撮影
http://www.mansell.com/pow_resources/camplists/fukuoka/fuku_18_sasebo/sasebo_history/sasebo_shipping_targets_1945-07-02.jpg
佐世保空襲から4日後の写真です。「CV HAYATAKA」が隼鷹の誤読と考えています。
昭和20年9月26日、佐世保にて米軍が撮影
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/usmc-series/USMC-100000/USMC-136996.html
また、翌21年4月13日に撮影された米軍のカラー映像にも、隼鷹、笠置らしき艦が映っています。
https://youtu.be/HL4B9mQGvFk?t=412
同年6月1日には、佐世保海軍工廠(現佐世保重工業)のドックにて、笠置とともに解体が始まっています。
恥かしながら、記事は伝え聞いた話を基にしており、自ら深く検証をしておりませんでした…。呉方面で、何か隼鷹の足跡をご存じでしたら、ぜひ教えてください。
dyamaさん
返信ありがとうございます。
申し訳ありません。お手数をおかけしました。私の勘違いです。隼鷹は、dyamaさんの書いているとおり、終戦時は、佐世保に居たようです。
さて、自分の本ですが、呉海軍関係の本は、艦船に関する話は多いのですが、呉海軍工廠内の部署や働いていた方々の具体的な話を纏めていた本は、あまりなかったので、個人レベルで、出来る限りの範囲で纏めてみました。
佐世保工廠におられた方々の名前も掲載しております。
お祖父様も江田島におられた時期(海軍兵学校)もありますから、ご存命なら、終戦時期の呉海軍工廠の様子もお聞き出来たかもしれませんね。平成25年の第2版から佐世保図書館に登録して頂けたので、お祖父さんにご一読頂けたら良かったのですが・・。しかし、今回、dyamaさんとこうしたメール交換が出来、本当に良かったです。
是非ご一読下さい。