伊能図にみる佐世保

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伊能忠敬が作成した「大日本沿海輿地全図」、通称「伊能図」に掲載されている19世紀初頭の佐世保市の地図です。分かりやすいように着色をしていますが、今からちょうど200年前の地図とは思えないほど正確ですね。

佐世保市民の方ならご存知の方も多いと思いますが、明治時代に佐世保に鎮守府が置かれるまで、佐世保は小さな漁村でした。そのため、明治より前の佐世保に関する史料は他の大きな街に比べれば乏しいようで、今なお研究が進められています。

白形浦

佐世保の人に「白形浦」と言っても誰もピンと来ないと思います。位置的に考えると鎮守府施設が置かれた場所のため、後世に地名が残らなかったと思われます。港湾設備を整えるために、明治初期に測量した図が実家にあったはずなので、今度帰った際に確認したいと思います。

横尾

今では影が薄い横尾町ですが、佐世保が市になるずっと昔からあったようです。私の家系の本家と分家は、横尾町一帯にあるので、市になる前から住んでいた一族なのかもしれません。だったらちょっと嬉しいな。(ほとんどの佐世保市民は、明治以降に佐賀などから移住してきた方々らしいです。)

山中

現在の山の田浄水場付近が「山中」という地名になっています。桜木町、赤木町付近だと思いますが、山中山という地名までありますね。浄水場が作られたのは1908年(明治42年)なので、その頃には山の田と呼ばれるようになっていた模様です。

早岐

早岐の古い町並みを見ると分かると思いますが、昔は早岐のほうが都会でした。江戸時代には既に100軒を越える集落があったらしく、平戸方面・長崎方面・太宰府といった福岡方面、さらには海路へとつながる地理的な理由もあったと思われます。400年続く早岐茶市がその繁栄っぷりを物語っているのではないでしょうか。また、早岐の名前の由来ともなった速来津姫伝説が収録されている「肥前国風土記」にも登場しています。

相神浦

最近、離島防衛の要となる「水陸機動団(日本版海兵隊)」が陸上自衛隊相浦駐屯地に拠点を置くことになりました。その基地がある相浦一帯は、以前は相神浦(あいこのうら)と呼ばれていたようです。相浦川流域全体のようで、柚木までカバーしています。佐世保村との境界は、今の春日町、西海学園近くにある堺木バス停留所付近だったらしく、松浦郡と彼杵郡の境界にもなっていたようです。 地図では小さくて分かりづらいかもしれませんが、愛宕山付近に飯盛城のことだと思われる「古城跡」の記載も見てとれます。

こういう風に地図を眺めているだけでも楽しいので、時間ができたら市立図書館の郷土資料室に行っていろいろと調べてみたいです。

佐世保のシステムエンジニアです。詳しいプロフィールやこのブログについてはこちらをご覧ください。

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