鎮守府史跡探訪〜昭和21年の佐世保空撮カラー映像〜

昭和21年に米軍によって撮影された佐世保の空撮カラー映像が Youtube に投稿されているのを見つけました。貴重なフィルムを投稿していただいて興奮しています。というのも、佐世保は戦前に鎮守府が置かれていたためか、全国でも有数の人口を誇る大都市だった1にも関わらず、当時の空撮写真や海岸線、鎮守府付近の詳細図があまり残されていません。国土地理院で閲覧できる空撮写真も戦後に米軍が撮影したものばかりです。

映像には、大牟田、佐世保、大村上空が映されていました。映像そのものは Youtube のものを見ていただくとして、佐世保上空について現在の地図と比較しながら見ていきたいと思います。

させぼ五番街 付近

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佐世保空襲の影響で空き地が目立つ港湾部です。

現在のさせぼ五番街がある場所は埋め立てされた場所です。カラオケのシダックスがある筋を五番街方面に行き、高速道路をくぐる交差点のすぐ向こう側が海でした。

画面上部、現在は松浦鉄道と高速道路がYの字になっているのが見えますが、撮影当時は画面左に向かっているものは高速道路ではなく、どちらも鉄道でした。高速道路になるこの鉄道は佐世保鎮守府、佐世保海軍工廠内にも伸びており、米軍が占領してからは「ジョスコー線」と呼ばれる線路でした。

現在も平瀬橋の脇にレールの一部を見ることができます。

島瀬町 付近

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画面右上から左に流れるのは名切川です。画面左の名切川沿いにある建物は佐世保玉屋。画面下には、旧国鉄佐世保線(現松浦鉄道)の鉄橋が焼け残っています。

今では想像することもできませんが、空き地になっている場所は空襲前まで木造の平屋が所狭しと並んでいました。こちらで佐世保玉屋周辺の焼ける前の写真を見ることができます。

画面右手の寺院は、現在の東本願寺佐世保別院のようです。

平瀬町 付近

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佐世保鎮守府を上空からカラーで映した貴重な映像です。昭和20年11月に陸海軍は解体され復員省に移行しているので、厳密に言うと鎮守府では既にないのですが、ほぼそのままの姿を見ることができます。

鎮守府内への引き込み線路の奥に見えるグラウンドは、現在、ミニッツパークの野球場・サッカーコートになっています。当時からグラウンドだったんですね。

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先ほどの写真の奥。鎮守府の建物がたくさん見えています。現在は自衛隊病院や音楽隊が置かれているエリアです。画面右上には当時から「海軍橋」の愛称で知られている佐世保橋が見えます。

元町 付近

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佐世保川にかかる海軍橋にさらに近づいたところです。凱旋記念館(佐世保市民ホール)や現在は海上自衛隊佐世保資料館になっている佐世保水交社も見えます。佐世保で一番古い町並みだった元町も壊滅的に焼失していますね…。教法寺の庭がかすかに見てとれます。

佐世保重工業(SSK)ドック 付近

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現在、SSKバイパスが走っている付近です。画面右中央に戦艦武蔵の艤装工事を行なった佐世保海軍工廠の第七船渠(現SSK第4ドック)がしっかり見てとれます。

SSKには仕事でもたまにお邪魔しますが、戦前から稼働中のクレーンや建物が現役で使用されていることも多いです。

佐世保市役所 付近

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この周辺も佐世保川を中心にして見事に焼けています。焼け野原の中、中央右に見える建物は佐世保警察署です。その上流にあるさらに大きな建物は佐世保市役所・公会堂です。

また、画面右上の山の上に見える黒っぽいL字型をした建物は成徳女子高等学校(現佐世保北高)です。

蛇島岸壁

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佐世保海軍工廠の蛇島(じゃじま)岸壁です。現在はSSKの岸壁です。

立神岸壁

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立神(たてがみ)岸壁です。現在は米軍と海上自衛隊が使用しています。

平瀬橋 付近

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中央に流れる佐世保川の手前が佐世保鎮守府、奥が一般市民が暮らすエリアに分かれていました。 平瀬橋も見えます。

佐世保郵便局(本局) 付近

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ここも綺麗に焼けています。現在の国道の場所は空襲前までは細い道だったようで、焼けたのを期に広い道を通して区画整備されたようです。体育文化館(コミュニティーセンター)がある場所は、陸軍佐世保要塞司令部跡ですが、なんだかよく分かりません。

日宇川河口 付近

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現在、佐世保高専の奥の工場がある付近です。ここには第21海軍航空廠の日宇工場があったため、撮影されたと思われます。

佐世保高専 付近

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道の形が比較的そのままになっています。画面を横断するのは現在は西九州自動車道佐世保道路。

その他

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航空母艦や二等駆逐艦のような艦艇がたくさん映っていました。

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↑の写真は、米軍が佐世保空襲後の昭和20年7月2日に撮影した針尾島のエビス湾の空撮写真です2。位置関係から考えると、「KASAGI」は航空母艦「笠置」。「HAYATAKA」と書かれているのは、祖父が乗っていた航空母艦「隼鷹(じゅんよう)」のことだと思われます。隼鷹は日本人でもなかなか音読みはできない艦名ですので読み間違えてたようです。 まさか、隼鷹のカラー映像が残っていたとは…!

隼鷹に関する記事は下記が詳しいです。

参考までに、下記は米軍が昭和21年に作成した戦災地図です。

大きな解像度のものはこちら


  1. 昭和15年時点で佐世保市の人口は全国16位。15位の札幌市と1000人ほどしか違わず、当時は横須賀市や尼崎市よりも人口が多かった。 

  2. Sasebo History – Assorted Data on a Historical City in Southern Japan 

鎮守府史跡探訪~佐世保東山海軍墓地〜

崎辺地区の見学に行った帰り、近くにある佐世保東山海軍墓地に参拝することにしました。両親から聞いた話によると、旧海軍の大尉だった祖父も生前はよく参拝に来ていたとのことです。

大宮町の通りから少し登った小高い丘の上にあり、福石小学校の南側に位置しています。狭く曲りくねった車道が続いているため、佐世保市民でもこの周辺に用事がない限りあまり通りません。

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入口の石碑です。祝日ともあって、私たちの他にも数組の参拝客がいました。

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墓地の案内板。陸軍や外国人も等しく祀られています。

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駐車場から入った参道の様子です。他のブログ記事では慰霊碑ばかりが紹介されていますが、あくまでも墓地ですのでこのような風景です。

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参道の脇には砲弾の形をしたモニュメントも。

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第二十七駆逐隊慰霊碑(時雨、白露、夕暮、有明)。400柱以上が祀られています。

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航空母艦「瑞鳳」戦役者慰霊碑。216柱が祀られています。

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軍艦「妙高」戦役者慰霊碑。90柱以上が祀られています。

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軍艦「那智」戦役者慰霊碑。約1000柱が祀られています。

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軍艦「足柄」戦役者鎮魂之碑。300柱以上が祀られています。

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軍艦「矢矧」戦役者慰霊碑。486柱が祀られています。

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軍艦「羽黒」戦役者慰霊碑。800柱以上が祀られています。

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軍艦「金剛」戦役者慰霊碑。1250柱が祀られています。

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航空母艦「加賀」戦役者慰霊碑。800柱以上が祀られています。

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航空母艦「飛龍」戦役没者慰霊碑。800柱以上が祀られています。

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佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑。伊号・呂号潜水艦合わせて2591柱が祀られています。

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広場にある東郷平八郎元帥の像。広場では近所に住んでいると思われる子供たちがサッカーをしていました。

オンラインゲームの影響で艦艇ばかり注目され「聖地」として崇められることが増えてきているようですが、自分たちのために戦って散った方々の墓地であり、慰霊のための施設であることを忘れてはいけないと感じました。

鎮守府史跡探訪~海上自衛隊佐世保資料館・セイルタワー~

6,7年ぶりに海上自衛隊佐世保資料館(通称、セイルタワー)に行ってきました。

西九州自動車道佐世保中央インター付近にあるため市外からのアクセスも簡単で多くの観光客が訪ずれている日本有数の海自の資料館ですが、自宅から5分もかからない位置にあっていつでも行けるという安心感と館内写真撮影禁止という理由から、なかなか行っていませんでした。

駐車場完備で入場料は無料。すぐ近くには佐世保バーガーで有名なハンバーガーショップもあります。 また、地図にも掲載されているとおり、この付近には旧佐世保鎮守府内にある海上自衛隊佐世保総監部、自衛隊病院、第一次世界大戦の凱旋記念館(佐世保市民ホール)、米軍住宅などがあるエリアです。

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資料館の前面です。画面の上半分と下半分は建物の様式が全然違いますが、一つの建物です。下半分は、明治期に建築された「佐世保水交社」の建物の形をそのままに作り替えたものです。

↓(2016/05/14追記) 後日、全天球カメラ「RICOH THETA S」で撮影したものです。Google ストリートビューのようにマウスをドラッグすると視点を回転できます。

海上自衛隊佐世保資料館(セイルタワー) – Spherical Image – RICOH THETA

海上自衛隊佐世保地方隊「西海の護り」の解説ページによると、次のとおり。

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佐世保水交社は1898(明治31)年、谷郷町より当地(上町)に移転しました。海軍士官の懇談、外国士官の接待、及び艦隊乗組士官の宿泊等のためにつくられ、大ホール、大食堂を備えた3階建ての洋館造りでした。  戦後、1945(昭和20)年米軍が接収、将校クラブ(タウンクラブ)として使用されていましたが、1982(昭和57)年、日本に返還、1994(平成6)年その一部を防衛庁(現防衛省)に所管換され、修復後、新史料館となりました。

特徴的な8角形の塔がそのまま現在にも引き継がれていることが分かると思います。実は水交社の隣にある保育園に通っていたので、改築される前の水交社も当時から知っていました。子供からは「薄気味が悪い洋館」というイメージしかありませんでしたが、趣のある建物であったことを覚えています。

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正面から向かって右を見ると、すぐ近くにある佐世保凱旋記念館(市民ホール)も見えます。昨年修復工事が終わったばかりで、建築当時に美しい外観が蘇っています。

さて、前述のとおり資料館の内部は一部を除いて基本的に撮影禁止です。受付の方にあらためて伺うと、受付正面のロビーにある記念撮影エリアと7階の展望ホールから外の景色を撮影するのはOKとのことでした。

写真つきの展示内容紹介は、佐世保地方隊のページにも掲載されていますが、ぜひ足を運んで見ることをオススメします。インターネットに掲載できる情報が少ないので伝わりにくいかもしれませんが、何十分もある映像コンテンツがいくつもあったり、明治から現在に至る艦船の模型が大量にあったり、艦船の中で使われていた調度品や東郷平八郎直筆の書などなど…、一日中かけて見てまわっても良いくらいの展示物があります。 貴重な展示品はもちろんのことですが、個人的に佐世保港内でイージス艦を操船できるシミュレータが面白かったです。

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記念撮影エリア。衣装を着て撮影することができます。

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7階の展望ホールより佐世保港を望む。手前の海上自衛隊施設と、高速道路をはさんで向こう側には米海軍艦艇と海自艦艇が見えています。

撮影可能なエリアが限られていると、どうしても他の方のブログで掲載されているのと同じような写真ばかりになっちゃいますね(笑) 屋外には「山内短五糎(センチ)砲」の展示がありますが、撮影を忘れていました。凱旋記念館の写真に移っている画面左手の石垣の上に展示されています。

この後、旧佐世保飛行場があり現在は佐世保教育隊・米軍施設がある崎辺地区と佐世保東山海軍墓地に行ってきました。

鎮守府史跡探訪〜陸軍佐世保要塞 石原岳堡塁〜

色々とお世話になっている920さんの運転する車で、長崎県西海市にある陸軍・佐世保要塞の石原岳堡塁に行ってきました。

920さんのお兄さんの吉川拓朗さんは、去年話題となった「佐世保軍港クルーズ」で船上ガイドを勤めている方で、佐世保の歴史・特に明治期以降について大変お詳しい方です。今の季節は寒いので軍港クルーズの定期運航はないようですが、この日もチャーター便での出航があったようです。そんなお兄さんのご提案で、夕方から「石原岳堡塁」に連れていってもらえることになりました。

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石原岳堡塁は森林公園として整備されていて、地図を見てもわかるとおり、ちょうど佐世保港の入口付近にあります。敵艦の侵入に備えて陸軍が明治期・日露戦争の頃に設営した堡塁らしいです。

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佐世保から西海橋を経由して北西に進むとあります。佐世保に住んでいてもこちら方面には用事がないため、ほとんど来たことがありません。さいかい交通のバスすら久々見た感…。

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公園に到着すると、周りを緑に囲まれた自動車が数台止められそうな駐車エリアがあり、その奥に上の写真のような史跡が見えていました。想像以上にちゃんとしている!

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駐車エリアに設置されていた立て看板です。

この堡塁は、記録によると、佐世保軍港防衛のために1897年(明治30年)10月21日に起工し、1899年(明治32年)12月31日に竣工したもので、全面積は約2haあります。 標高73〜77mに備えられた砲種は、クルップル式10センチカノン砲6門、鋼製9センチ臼砲4門、砲座数は7基となっておりました。 この後、1929年(昭和4年)6月14日には、陸軍の台帳から全部が除籍されました。(佐世保要塞築城史より)

日清戦争が明治27〜28年、日露戦争が明治37〜38年なので、ちょうど艦隊戦でドンパチやっていた頃に設営されたようです。お兄さんのお話によると「太平洋戦争の始まった頃は日本の海軍力が増強・制海権もしっかりして、このような本土防衛のための対艦射撃施設は不要になっていたのでは」とのご説明がありました。

なるほど、太平洋戦争時期に佐世保湾に敵艦が入ってくるような状況ではもはや日本が負けているような状況でしょうし、昭和初期の陸軍は既に大陸への進出を伺っている頃合いでもあります。昭和4年に除籍されたことに納得がいきました。

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堡塁は一段低く掘ったコンクリートと石積みの堅牢な壕の中にたくさん並んでいました。木々が生い茂る小高い山の中にこんなに立派な建造物があるのは、まるで異世界に来たみたいな感覚。思わず「おおっ」と声をあげてしまいました。

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並んだ堡塁の向かって左手には、地下へとゆるやかに下るトンネルが…。

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中に入ってみると、外よりは少し暖い感じがしました。なんだかミステリーハンターになった気分です(笑)。 30メートルほど奥に進むと、突き当たりが二手に分かれており、それぞれ小部屋がありました。

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50mm の単焦点レンズしか持っておらず、小さな空間を全体で撮ることができなかったので分かりづらいと思いますが、壕の中に侵入してきた敵を射撃するトーチカのようでした。

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分厚い石造りの壁に空けられた小窓からは外が伺えます。

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辺りも薄暗くなっておりブレてしまっていますが、トンネルを出て外堀の中を進むと、トーチカを外側から見ることができました。

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駐車エリアにあった案内板です。中央にある堡塁跡から左上に描いてある説明書きがないイラストの部分にあるトーチカまで地下トンネルで行き来できるようでした。

この案内板にはテントのイラストや、トイレ・炊事棟が描かれているので、この堡塁にも泊まることができるのかな、と思いました。

九州でも大雪となる前日の寒い日だったので、自分たち以外の利用者はなく、とても静かでした。

艦船キットコレクション Vol.6 スリガオ海峡 1/2000 戦艦「扶桑」

\扶桑姉さまが鎮守府に着任しました!/

Google ハングアウトの画面共有をしながら同僚とペアプロもどきをしている最中、手元が暇だったので、数週間前に購入した「艦船キットコレクション Vol.6 スガリオ海峡」の扶桑を組みました。

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1/2000スケールモデルなので、全長192メートルの姉さまでも手のひらに乗るサイズになりました。ちなみに、全長だけでいうと航空巡洋艦最上の方が大きいです。(200メートル)

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調子に乗って最近購入したばかりの50mm単焦点レンズで撮影したら、被写界深度がめちゃくちゃ小さくてボケボケになってしまいました。見苦しくてすみません。もっとカメラの方も練習せねば…。

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丸みを帯びた木の葉型の船体に棒が突き刺さったような艦橋が、日露戦争の頃から第二次世界大戦まで試行錯誤して作り上げてきた日本海軍の艦の過渡期を彷彿させます。ちょっとアンバランスな感じがまた、扶桑型らしいです。

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このシリーズで最初に組んだ航空巡洋艦「最上」との比較です。戦艦と航空巡洋艦なので兵装を単純比較することはできませんが、改装を受けた最上の方がなんだか近代的な感じがしますね。

次回は山城…と言いたいところですが、気分を変えて駆逐艦「山雲・満潮・朝雲」のいずれかを組みたいと思います。

艦船キットコレクション Vol.6 スリガオ海峡 1/2000 航空巡洋艦「最上」

エフトイズの艦船キットコレクション Vol.6 スガリオ海峡 航空巡洋艦「最上」(1/2000スケール)を作成しました。

1/2000スケールの艦船キットの話をIRCでしていたら、知人からちょうどこの艦船キットコレクションを教えてもらいました。その後、西海模型さんに入ってみると、ちょうど「山城」「扶桑」「最上」「山雲・満潮・朝雲」の4種類があったので大人買い。それでも一つ500円ちょっとなので、2000円でこれだけ楽しめるのはリーズナブルでよいです。特に1/2000スケールモデルはパーツ数が少ないので、造り始める前に気合いを注入しなくていいのも良いです。このシリーズはいいぞもっとやれ、です。

さて、エフトイズの食玩モデルは、去年の「現用艦船キットコレクション」の護衛艦「しらね」以来です。食玩といえど、手軽に塗装済みモデルを組めるのは楽しいです。

このシリーズは、「山城」「扶桑」「最上」「山雲・満潮・朝雲」がそれぞれフルハルモデル・洋上モデル(いわゆるウォーターラインモデル)の2種類があって、合計は8種類になります。自分が購入したものは、最上だけ洋上モデルで、その他はフルハルモデルでした。外箱にはどの艦が入っているか、ちゃんと番号が記載されていますが、フルハルか洋上なのかは買ってみてのお楽しみということです。

今回は最上から作成することにしました。

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箱から出して、本体に煙突や飛行甲板を取りつけた直後です。重巡ですらこの小ささ…、さすが1/2000スケールです。全長200メートルの船体が、自分の人差し指とほとんど変わらない大きさです。かわいい。

ちなみに最上は、建造時にはロンドン軍縮条約の絡みで15.5センチ砲装備の軽巡として誕生しましたが、条約失効後に改装を行い、20.3センチ砲を備えた重巡として生まれ変わっています。ミッドウェー海戦後、後部の主砲を撤去して飛行甲板の延長工事を経て、航空巡洋艦になりました。レイテ沖海戦の米軍による猛攻の結果大破し、味方駆逐艦により魚雷処分されました。

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小さい点と食玩という割には、塗装はしっかりしています。外箱には「おまけ…中国製 菓子…日本製」と書かれています。中国のパートのオバチャンたちが丁寧に塗装してくれているんだろうなあと考えると頭が下がるばかりです。

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一通り組み終わった状態です。パーツ数は船体・船底を除いて17個と少ないので、パーツ自体が小さいものの、そんなに時間はかかりません。大きな面もほとんどないので、ランナー接合部を削る手間もほとんどありませんでした。(やすりがけをしようと思い始めると、そもそも塗り直しになっちゃうので、というところもありますが)

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アップです。さすがにレンズから数センチの距離まで近づくと、特にアンテナ支柱などの作りが甘いのが分かってしまいますが、強度上最低限の細さと1/2000スケールということを考えたら大健闘なんじゃないでしょうか。

なお、公式サイトやパッケージには記載がなく、組立説明書にも表記がありませんが、単葉の艦載機(瑞雲?)が3機同梱されています。写真ではボケていますが、後部飛行甲板に搭載してみました。ちゃんとエンジン、風防、日の丸、裏面の薄いグレイ塗装までしてあって、さらにはちゃんとフロートがモールドで表現されているなど、素晴しいの一言です。

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シリーズの他のキットと並べたところ。上から「山城」「扶桑」「最上」「山雲・満潮・朝雲」です。手前の駆逐艦に至っては10円玉との対比で分かると思いますが、ボールペンやタバコでも隠すことができるほど小さいです。

また、扶桑と山城は同型艦ですが、こうやって並べてみると色々と違うところがあるのがよく分かりました。(山雲・満潮・朝雲はモデルは同一のもののようです)

鎮守府史跡探訪〜佐世保軍港クルーズ〜

ゴールデンウィーク中、知人の船に乗せてもらい佐世保港からハウステンボスの見える波止場まで行き、バーベキューをしてきました。

はりきって写真を撮ったんですが自分のスキルでは全然上手く撮れませんでした。でもやっぱり貼りつけておこうと思います。撮影スキルもがんばるぞい!

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昼下がり、鯨瀬埠頭に泊めた船に乗船。対岸に見えているのは米軍施設です。休みの日はよく対岸から米兵やその家族の叫び声が聞こえてきます。佐世保の街中にはアメリカ人がたくさんいますが、日本人では考えられない音量で会話してます。声がでかいのがアメリカ人。

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出港するとすぐに左舷側に鯨瀬ターミナルが見えてきます。ここから五島行きなどのフェリーが出ています。マンガ「トッキュー」の第1巻で乗用車が海に転落したのは、ちょうど写真に写っている岸壁です。

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鯨瀬埠頭の反対側、右舷側を見ると米軍佐世保基地にくっついている立神2号桟橋に、護衛艦「しまかぜ」が停泊していました。米軍基地エリアの奥深くにある桟橋部分だけが海上自衛隊のものです。佐世保港の敷地っていうのはなかなか複雑で、民間の佐世保重工業(SSK、旧佐世保海軍工廠)、アメリカ海軍佐世保基地、海上自衛隊佐世保基地、さらに一般人にとって大切な朝市や貨客船ターミナルがある万津・新港町などなど、たくさんのエリアに分割されています。

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佐世保市議会議員のサイトに良い地図があったので拝借しました。地図は少し古い2010年時点のようで、埋め立てして出来た土地にさせぼ五番街を作った新港町がまだ海の底です。平瀬係船池にある点線・斜線部分も埋め立てられているようです。昨年も返還のニュースが流れてましたが、SSKと米軍が共同で利用している立神岸壁ではいろいろとあるようですね。

なお、水陸機動団で話題となった陸上自衛隊佐世保基地は相浦地区にあり、地図では向かって左手の方になります。

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船は進み、さらに左舷側を見ると今度は海上自衛隊倉島岸壁が見えます。ここが毎回一般公開でお世話になっている岸壁です。長崎三菱造船所建造の護衛艦「あきづき」が係留されています。

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その後には、右手から護衛艦「あさゆき」、「さわぎり」、「じんつう」が係留中です。赤煉瓦風の海自厚生センターがまぶしいですね。

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海から見た倉島岸壁の位置はこんな感じです。写真に写っている海岸線の一番左に佐世保駅が小さく見えています。

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倉島岸壁を過ぎると、今度は米軍弾薬補給所が見えてきます。さらに、補給所の先には、崎辺にある海上自衛隊佐世保教育隊・警備隊の基地が見えます。崎辺の岬には戦前、佐世保海軍航空隊の滑走路がありました。

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埋立地の崎辺では地盤が弱く、滑走路に不向きという理由から佐世保海軍航空隊は大村基地に拠点を移したそうです。写真は佐世保地方隊のページから拝借しています。(崎辺に関する詳しい記事があります)

滑走路といえば平地が少ない佐世保では、今でも佐世保湾内に水上機用の滑走路エリアが設けられているようです。

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湾内のほとんどの場所から外海が見えないくらい岬や入江が複雑な海岸線を構成している佐世保です。 その日の天候にもよるとは思いますが、実際に船に乗って湾内を航行しても驚くほど波がありません。 素人目に見ても着水しやすいんだろうなあ、と思いました。上の地図でいうと「D」と書かれたエリアです。

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さて、その水上滑走路付近に一隻の艦が停泊していました。どう見ても商船ではなさそうです。

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近づいて見ると、海上自衛隊の補給艦「おうみ」でした。旧ユニバーサル造船建造、2005年就役の比較的新しい艦です。全長220メートルで、さきほどの「あさゆき」は130メートル、旧海軍の重巡洋艦「高雄」でも203メートルなので艦船の中ではかなり大型のほうです。陸からだとこんなに間近に見れない艦をぐるりと見てまわることができるのもクルーズの醍醐味って感じですね!

また、造船システムの開発関係者として見ると「船型のあんなところにナックルがー」と困惑してしまいました。補給艦として容積を稼ぎたい一方で、軍艦として速力を上げるための船型なんでしょうか。ともかく仕事ってこわい。

さあ、どんどん南下していきます。

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針尾島に近づくと針尾無線送信所の電波塔が見えました。旧海軍が造った大正時代から立っている軍用電波塔です。周りには森と畑しかないのでスケール感がよく分からなくなりますがなかなか大きいです。明治の産業遺産を世界遺産に申請して盛り上がってますが、佐世保も教会群だけじゃなくてこういう巨大遺構をもっと観光資源にすればいいのに…と思ってみたり。

新海誠監督の「雲のむこう、約束の場所」に出てくる「ユニオンの塔」のようです。近くで見ると威圧感というか、一種の不気味ささえ感じられる塔です。

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針尾島の南端には西海橋があります。前述の「トッキュー」では遊覧船が沈没していた、渦潮の名所でもあります。この日は通った時間帯のせいもあってか、全然渦潮がありませんでした。水色の方が新西海橋、赤い方が旧西海橋です。

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旧の方は建造当時、アーチ式鉄橋としては日本一の長さ(世界では3位)だったらしいです。そのせいか、昭和31年公開の怪獣映画の怪獣「ラドン」によって見事に破壊されてます。

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西海橋を過ぎ、大村湾に入ると左舷側にハウステンボスが見えてきます。オランダの都市をモチーフにしたテーマパークですが、横から見ると山の起伏が激しくて、海抜0メートル地帯で有名なオランダの沿岸部とは似ても似つかない地形に…。横から見ると小規模に見えますが、敷地面積は東京ディズニーランドよりも大きく、ディズニーシーを合わせたのと同じくらいの面積はあるそうです。山の起伏が激しくて海岸付近まで山がせまっているのは佐世保の特徴で、軍港になった理由の一つでもあります。山が海岸まで来ているということは遠浅ではないので、比較的大型の艦船も入港しやすい地形だと言えるのです。

ちなみに、ハウステンボスがある土地は終戦直後の復員事業の際、検疫所があった場所です。

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ハウステンボスの対岸にある小さな波止場に上陸し、バーベキュー開始。

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ワンピースに登場するサウザントサニー号のクルーズ船がいったりきたりしていました。後から知った話ですが、2015年5月6日で終了し、愛知県にある「ラグーナテンボス」に移されたとのこと。撮影日は5月2日です。ちなみに、ラグーナテンボスの存在もさっき知りました。

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まわりに光源が何もない地域なので、花火はより一層綺麗に見えました。

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帰りに撮影した補給艦「おうみ」です。来た時とは艦首の方向が違っていました。写真はとも側から見たおうみの船尾部です。潮の流れに向かって動いているようです。ライトアップしてて綺麗ですね。

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最後に倉島岸壁です。楽しかったな〜。

鎮守府史跡探訪〜堺木峠減圧井〜

先日、豚トロを食べようと雪平鍋に油をひいて加熱している途中、誤って鍋をひっくり返してしまいました。 結果、足に全治2週間の火傷を負いました。情けない・・・。

火傷した日からちょうど2週間が過ぎた日、通院のため自転車に乗っていると堺木付近に「堺木峠減圧井(げんあつせい)」というものを見つけました。

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減圧井とは送水管の破裂を防ぐため、水圧の調整を行う施設らしいです。鎮守府があった市街地から大野方面に行く際、堺木付近はもっとも高さがある場所に当たります。山間部から集めた水をここで一旦減圧してから、下方にある鎮守府まで送水していたみたいですね。以前から目にしていたものの、明治時代の旧跡であることは知りませんでした。

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説明の板には、堺木峠減圧井の歴史が書いてあります。

旧海軍佐世保鎮守府は海軍専用水道の水源拡充のため、当時の北松浦郡皆瀬村(現在の十文野町)にあった湧水の溜池を改良することを計画し、岡本貯水池を明治32年3月に起工、同33年5月に竣工しました。時を前後して、同貯水池の原水を浄化するための施設(旧矢岳浄水場)を明治31年10月に着工し両方を8インチ(20cm強)鉄管で結びました。 しかし、両方の高低差が146メートルにもあり水圧が高くなりすぎることから、調整を行う減圧井を「堺木」と「野中」に設けました。 この建物は、赤煉瓦造りで屋根は日本瓦葺、和洋折衷の当時としては大変モダンな水道施設で、旧矢岳浄水場が竣工した明治34年頃完成したものと思われます。 現在は使用されていませんが、当時を偲ぶ貴重な施設です。 平成5年7月 佐世保市水道局

なお、堺木峠減圧井は通りに面しているため、Google ストリートビューでも見ることができます。

祖父の写真

今月いよいよ30歳になることもあり、身の周りを綺麗にしておこうと、年が明けてから週末はもっぱら家の掃除をしています。引っ越してからずっと開けていなかった段ボールを開いてみると懐しいものがたくさん出てきました。 (断捨離的側面から考えると、そういう段ボールは開封せずにそのまま捨てた方がいいのかもしれませんが…)

特に中学から高校にかけて、自分のパソコンのバックアップやデータ移動のために焼いた CD-R やフロッピーディスクには、その当時やっていたこと・興味を持っていたことがたくさん詰まっています。

その中に、ちょうど1年前の今日他界した祖父の写真データが3枚だけありました。 大正9年生まれの祖父は、特攻で有名な鹿児島県の知覧飛行場の目と鼻の先にある川辺中学校を卒業後、江田島の海軍兵学校に第70期生として入学しました。

写真は岩国海軍航空隊で航空術教練中の祖父(主翼上中央)です。江田島からだと岩国よりも呉海軍航空隊の方が近いですが、予科練生やその他実習生の教練はもっぱら岩国の方だったようです。飛行機はあんまり詳しくないのですが、写っている機体はどうも九九式艦上爆撃機のようです。生前の祖父から聞いた話では「赤トンボ(九三式中間練習機)に乗って飛んだ」という話ですので、写真撮影用に主力の艦爆と一緒に撮影したのかもしれません。

次の写真は、航空母艦「隼鷹」の第一士官次室記念撮影です。前列左から5番目が祖父で、部下の皆さんと昭和20年の正月に撮ったようです。隼鷹の飛行甲板上で撮影したと思われる写真です。祖父は海軍兵学校卒業後、潜水母艦「長鯨」で洋上任務についた後、「隼鷹」の後部機銃座の指揮(ケップガン)をやっていました。

昭和19年の暮れ、戦艦「武蔵」の生存者200名を乗せた隼鷹は、戦艦「榛名」、駆逐艦「」とともに台湾から日本へ帰投する途中、12月9日の夜に米潜水艦の攻撃を受けて船体と機関部を損傷しています。祖父から「浸水によるすさまじい傾斜だったが、なんとか佐世保まで持ち堪えた」と聞いています。時系列に関しては、Wikipedia に詳しい記事が載っています。

なお、後列左から2番目に上を見上げている人がいますが、祖父曰く「正月で酒を飲んだ後の撮影だったから、酔っぱらってふざけているんだろう」とのことでした。

最後の写真は、駆逐艦「」の准士官以上記念撮影です。これは終戦直後の昭和20年〜21年ごろ撮られた写真で、祖父は前列左から2番目です。復員輸送に従事していた際に「楠」の副長をしていました。その向かって右隣が艦長、さらにその右の顎髭を蓄えた方は軍医だと聞いています。なお、最終的な階級は大尉だったようです。

鎮守府史跡探訪〜佐世保橋(海軍橋)と佐世保海兵団之跡碑〜

9月12日(金)の夜から13日(土)の間にかけて、眼鏡を亡くしてしまいました。数ヶ月前、歩いている最中に胸元にかけておいた眼鏡を落とし、気付かずに踏んでしまって、作り直したばかりの眼鏡でした。佐世保に帰ってきてからは四ヶ町アーケードにある別の眼鏡屋さんに何度かお世話になっていましたが、佐世保にもようやく数千円で購入が可能な低価格帯の眼鏡を取り扱う店が出てきたので、様子見を兼ねてそちらに行くことにしました。

大阪に居た頃は難波駅のZoffにお世話になっていて、眼鏡を購入して難波で買い物をした帰りに受け取って帰る、というのが普通だったので、佐世保に帰ってきた初めの頃に佐世保で眼鏡を作ると1週間も待たされて、こういう小さな差異に驚かされたものです。ちなみに、今年になって前述の踏んだ眼鏡を作り直した時は2、3日まで短縮していましたが、30分で作れるZoffの利便性にはやはり敵いません。

させぼ五番街に出来たのは、Zoffじゃなくてジンズというお店でしたが、ウェブで確認するとZoffのように生産から販売を一手に自社で行なっているらしく、価格も低価格で即日受け渡しが可能ということで、喜んで買いに行きました。 というのも、明日月曜日に出張会議が入っているので、何としても本日中に眼鏡を作りたかったのです。先週は古い厚縁眼鏡をひっぱり出してきてかけていましたが、度が合っていないのと視界が狭いのと、やはり重いのが気になる。 古い眼鏡をかけて会議に望もうかとも思いましたが、ちょうと前述のジンズの話を耳にしていたので、購入する決心をしました。

昨日の土曜日は出張の書類作成で会社に出ており、そのまま母が運転する車に拾われ、妹と3人で弓張の丘ホテルでディナーをしてきた(佐世保の夜景とハウステンボスの花火大会が見れて良かった)ので、通勤に使っている自転車は会社に置いたまま。自宅から会社に行って自転車を取り、そこから自転車でウロウロがスタートです。

さて先週、Ingressにハマっている同僚のHさんが「佐世保公園の佐世保海兵団之跡碑」について調べていました。ウェブの誰かが撮った写真を見ると、どうも子供の頃に見覚えがある。ミニッツパーク(佐世保公園)周辺にあるということだったので大体の目星がついていたので、寄ってみることにしました。

ミニッツパークは在日アメリカ軍によって今なお占領されているエリアですが、一部は佐世保公園として市民にも開放されており、佐世保の中心地・一等地であるにも関わらず緑豊かな公園とスポーツグラウンドがある場所です。戦前は、何を隠そう佐世保鎮守府があった場所です。

さて、会社がある名切谷からミニッツパークに行くとすると佐世保川を渡らねばなりません。ミニッツパーク方面に行ける橋は、下流からジョスコー線が通っていた平瀬橋、アルバカーキ橋、佐世保橋(海軍橋)の3つです。目的地であるさせぼ五番街とは逆方向になりますが、写真撮影ついでに佐世保橋から行くことにしました。

ちなみに、佐世保橋もIngressのポータルになっているようです。

写真は佐世保橋です。橋の右手が市街地で、左手が旧佐世保鎮守府でした。川で市街地と鎮守府施設が分割されていたため、そこに架かる橋はいつしか海軍橋と呼ばれていたそうです。(ちなみに戦前から橋自体の正式名称は「佐世保橋」のようです)

橋をこえて正面に写っているビル群は、元町です。自分の本籍地で今は跡形もないですが、祖母の前の代までここで旅館をしていたそうです。

ちなみに、元町はその名前のとおり佐世保の「元」になった町のようです。佐世保鎮守府が設置される際に作成された測量地図を見てみると、佐世保は元町に数軒の民家が立ち並んでいるだけの小さな集落でした。その数軒の一つに教法寺があり、当時のまだ何もない佐世保の写真にも写っています。

写真は佐世保市のサイトにあるエンプラ事件当時の佐世保橋の写真です。奥の瓦屋根の門が教法寺。

佐世保は鎮守府が設置されて以降、主に佐賀方面から移民?が多くやってきたと言われています。もしかすると、この元町は本当の意味での佐世保人のルーツなのかもしれませんね。

スマホでの撮影なのであまり画質が良くないですが…、市街地側から旧鎮守府方向を見た佐世保橋です。中央の大きなマンションの奥に教法寺、その奥にあるグレイの独特な形の屋根をしているのが、海上自衛隊佐世保資料館(セイルタワー)です。

セイルタワーは佐世保水交社の跡地に建設されており、その水交社は、明治9年、日本海軍士官の親睦・研究団体として海軍省の外部団体として創設されました。

米軍接収後は将校クラブとして用いられ、自分が中1の頃(1997年)に現在のセイルタワーに生まれ変わりました。(画像は海上自衛隊佐世保地方隊のサイトから拝借)

現在の建物も当時の六角形の塔があり、面持ちを残しています。自宅からも自転車で5分もかからないところなので、時間を見つけて行ってみたいと思います。

さて、話が脱線しました。佐世保橋に戻りましょう。

佐世保橋から2車線道路一本分の近さにある浜田公園に、旧・佐世保橋の欄干の一部が残されています。この一部は下の碑文にもあるとおり2代目です。

佐世保橋を旧鎮守府エリアに渡ると、佐世保総合病院前に旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館があります。

私は中に入ったことがないんですが、以前入ったことがある母の話によると「内装は勿体ないくらいボロボロになっていた」とのことです。 佐世保地方隊のウェブサイトによると、これは耐震工事と復元工事らしく、2015年には戦前の華やかな姿に生まれ変わるそうです。佐世保はその土地柄ゆえ古い建造物が少ないので、こういう保存の動きは嬉しいですよね。

総合病院の横にある佐世保川沿いの道を南下していくと、アルバカーキ橋が見えてきました。

昭和41年に架けられた橋で、佐世保と姉妹都市である米国アルバカーキ市の名前をとって命名されました。この橋は、写真のずっと右に集中している米軍基地から、左の市街地に歩いて行く良い場所に架かっているため、米兵やその家族がよく歩いています。 この写真には写っていませんが、左のファミリーマートのさらに左側すじ向いに、いつもお世話になっている西海模型さんがあります。西海模型さんに行くとすごい確率で米兵しかいないのは、こういう立地のせいかもしれません。

アルバカーキ橋を前の写真でいう右手に進んでいくと、佐世保公園があり、米軍施設のゲートがあります。米軍施設と言えど、この奥は野球のグラウンドなどがあるスポーツ施設なので、休日もあって多くの子供たちが米兵に混じって出入りしていました。

写っているのはレストハウスらしく、以前中に入ったことがありますが、アメリカンサイズのコーラなどを飲めましたよ〜。

視線を右にちょっとずらすと、明らかに日常で人が使ってなさそうな道が続いています。米軍のフェンスがある左側はフェンスの向こうは往来が耐えませんが、こっちは誰もいません。苔と雑草ばかりです。

自分の記憶が正しければ、この奥に「佐世保海兵団之跡碑」があるはずですが…。

30メートルほど奥に進むと、明らかに最近のじゃなさそうな建物がありました。というか戦前の建物ようです。

もっと写真を撮らねばーと周り込もうとすると

佐世保海兵団之跡碑がありました!

あった…けど雑草となんかの資材にまみれてるーーー!

雑草などの生え具合から、どう見ても放置プレイです…。奥は自衛隊施設、左手は米軍施設、ここは一般市民に開放されている佐世保公園内のはずですから、許可なく入っても大丈夫なはずなんですが、誰も入ってなさそうな雰囲気がぷんぷんするぜぇ状態なのでやたら不安になります…。

左手を見ると、米軍フェンスのいたるところに貼ってある看板が。

米軍フェンスとの位置関係はこんな感じになります。奥の米軍施設のキレイなスポーツ場で子供たちがワイワイやっているのと対照的で、こちらは暗くて静かな空気が漂っています。

碑の正面から見たところ。碑に続く道の茂り加減を見ると、やはり少なくとも数ヶ月は人の手が入った様子はありません。

ナナメから。コンクリート製みたいですが、劣化による汚れが目立っています。手前の錨はなんなんだろうなあ、と碑文を探すと

右っぽいことが書いてあるだけで、錨については書いてありません。

碑の下を確認してみると、地元の名士であった辻一三の名前が。この人の邸宅は私の実家と目と鼻の先ということもあり子供の頃から名前を知っていました。終戦直後から高度成長期まで佐世保の議会や市長として活躍した人です。エンプラ事件の発端となった入港の受け入れや、原子力船むつの入港受け入れなど、今も評価は二分される人だとは思いますが、佐世保に強い影響を残した人には変わりないと思います。

彼の名前があるということは、市長として現職だった昭和38年から57年の間に建立されたんでしょう。

結局錨については分からず終いでした。錨についてはあんまり詳しくないですが、こういういかにも「錨!」って感じのストックアンカーは戦前のもののようなイメージがあるけどなぁ。

さて、この碑の周りには写真に写ってないところにも公園のベンチやゴミ箱が大量に置いて(投棄して?)あったりするんですが、そこに見覚えがある少年がいました。

やあ久しぶり!と言っているような気がしたので、思わず、ここにいたのか!と声をかけてしまいました。この少年とライオンは、小学生の頃に一番よく遊んだ木場田公園にありました。今ではその公園も今風のキレイな風貌に様変わりをしていますが、こんなところで再会するとは思いませんでした。台座部分がないですが、公園にあった当時は大人の身の丈ほどある重厚な台座の上にあったので、よじ登ろうとしてたのをよく覚えています。

公園の改築で撤去されたものの破壊してしまうのは偲びないと思った関係者の配慮でしょうか。劣化してボロボロになっていますが、ブルーシートがかけられていた痕跡もあります。

佐世保海兵団之跡碑が残念な状態で放置されていましたが、思わぬ再会も出来たので満足とし、最初も目的であった眼鏡を買いにさせぼ五番街に向いました。

家から自転車で数分圏内で、買い物ついでに史跡めぐりができるのはすごくラッキーです!